呪詛諸毒薬 その一 |
新世紀が始まった2000年(平成12年)1月、突然背中に激痛が走った。背中を棒か何かで打ち付けられているような激しい痛みだった。痛みの範囲が次第に拡がっていくのを感じて近所の内科医院に行ったが埒が明かず、当時住んでいた千葉県内の大学病院にタクシーで駆け込んだ。
緊急外来の診察室で呼吸が苦しくなり、ベッドに寝かされた。呼吸がこま切れになっている私を数人の内科医と看護婦が取り囲んでいた。女医が私の胸に聴診器を当て、他の医師たちと看護婦が何らかの処置を始めようとしたとき、一人の医師が他の医師たちの誰に向けるともなく言った。「疲れてるんだよ」と。
まだ診察を終えておらず、その時初めて会った医師の言葉である。私はかれの言葉を終生忘れることが出来ないだろう。集団ストーカーを受け始めて8年が経っていた。先回りされたことを私は悟った。
呼吸がいっそう激しくなり、看護婦が「チアノーゼをおこしてます」と医師たちに言った。私が寝ていたベッドは数人の看護婦によってそのまま内科病棟に運ばれた。緊急入院だったが、私は背中の激痛に耐えつつ、手と足の指先が痺れていくことを感じていた。
緊急入院後、担当の内科医は幾つかの処置を施してくれたが、棒で殴られるような背中の激痛は断続的に続いており、気づくと指先の痺れが徐々に手脚全体へと拡がっていった。その間に教授回診があった。直前に担当医が私の膝をゴムハンマーで叩く反射テストを行った。
10人近い医師たちが教授を中心に一つひとつのベッドを回ってきた。私の所まで来た教授が担当医に反射テストの結果を訊いた。担当医は「あった」と答えていた。私はもう言葉も出なかった。かれの反射テストに私の膝は反応しなかったからだ。担当医の頭には、それまで私と会ったこともない医師の「疲れているんだよ」と決めつけたあの言葉が占めていただろうから。
そのまま有効な治療は施されなかった。麻痺は両手脚全体と首上まで拡がり胴回りを強く縛られているような異様な圧迫感があった。当時勤務していた会社の社長が病院に協力要請してくれたことも無論あるが、状態が悪化していくことを担当医以外の医師が気づいたからなのか、あるいは毒物の証拠が消えた頃を見計らった誰かの要請だったのか、急きょ教授を始めとした医師団が組まれ、ベッドは脳神経内科病棟に移された。緊急入院から一週間が過ぎていた。内科の担当医が謝りに来たが、私は何も言わなかった。
麻痺は顔半分まで拡がり、涎が頬を伝っていた。医師は、”ギランバレー症候群”という病名をあげ、まだ断定できないが、とつづけた。しかし私には、そういった”病気”ではない確信があった。
この項つづく
※神経内科と誤記してしまいましたが、正しくは脳神経内科の誤りでしたので訂正しました。,3/13