『日本教』 |
『日本教』という言葉をしばしば思い浮かべます。この言葉は自分で発明した言葉だと思い込んでいたのですが、数十年ぶりにイザヤ・ペンダサンこと山本七平著作の『日本人とユダヤ人』を読み返してみると、そこにはっきり記されていてがっかりしました。きっと少年時代に刻まれた記憶が脳みそのどこかにゆらゆらと浮遊していて、幼い頃からキリスト教に強い関心を抱いていたものが神道に目覚め、やがて仏教に至り、ユダヤ教に興味を持つうちに、結果的に神仏習合こそが日本人の思想の根幹を為すものであると確信したとき、ふたたび『日本教』という言葉が甦っていたのかも知れません。
神仏習合は神仏混淆と言い換えられることもありますが、混淆にはごちゃ混ぜになった状態を指しているイメージがあるので、習合とは明確に別けておきます。実際には明治維新までカミとホトケが一緒くたになっていたわけですが、ここでは<感覚的な神道>と<理論的な仏教>が互いに習い合って生まれた日本人特有の文化的思考回路と記しておきます。以前タイ人たちと話をしていて、彼らが口々に「日本のお寺は仏教ではない」と洩らしていましたが、わが国では僧侶が頭を剃らず酒を呑み肉を喰い妻帯までしているわけですから、仏教が義務教育中の必須科目であるタイ人から見れば無理もないことです。日本のそれは本当の仏教とはいえないでしようから、各宗派が過去の恩讐を棄てて一つになり、日本仏教と言い換えたほうが良いかと思います。
仏教の真髄は<悟り>です。ひろさちやさんの処女作『阿修羅よ』から教えられたことを少し記します。むかし阿修羅は神々の帝王でした。(神の概念を仏教では人間界のひとつ上の階級であり、如来はおろか菩薩にもなり得ていないまだ未熟な修行者と捉えています)。阿修羅は若き帝釈天に自分の娘を嫁がせ、後継者にしようと考えていました。ところが帝釈天はその娘と強引に関係を持ってしまうのです。帝王である阿修羅は激怒しました。最愛の娘を強姦されたうえさらわれてしまったのですから。阿修羅の軍勢と帝釈天の軍勢との間で激しい戦争が起こりました。しかし若い者を集めている帝釈天軍は圧倒的に強く、阿修羅軍の敗退がつづきます。何度戦っても帝王であった阿修羅は勝てないのです。阿修羅は仏陀のもとへ行き、帝釈天の不正を訴えました。すると仏陀は、あろうことか阿修羅を人間界より下の階級に貶めてしまったのです。その心は<阿修羅の執着>にあると説くのです。
娘を強姦され、さらわれて結婚させられ、誇りをなし崩しにされて激怒して戦った阿修羅が、貪り、怒り、愚かといった、何かに執着(しゅうぢゃく)することを悪とする仏法によって<修羅界>に封じ込められてしまったのです。奈良興福寺の阿修羅像をご覧になった方も多いと思います。怒りと哀しみ、憎しみと憂い、そのすべてがあのお顔の、とくに眉間の辺りに見事なまでに表現されているのです。私が仏教に心底から帰依できないのは、そこにあります。
悟る、ということをとことんまで実践していくと必然的に物欲や食欲から性欲、ことに闘争心や野心といった感情から離れていくことになり、心は平穏になるでしょうが、やがて信仰者は貧困を余儀なくされ、国家は衰退してしまうことになります。それを救いつづけているのが日本固有の宗教であり文化でもある神社神道なのです。神道が好戦的というのは嘘っぱちですが、現世利益など人間の煩悩を充分に受容する信仰形態ですから、欲得づくの願いでも日本の神さまたちは大らかに受け入れてくれる筈です。願望が叶うかどうかは知りませんが、怒りはしません。神社への信仰は観念であり、仏法は智慧そのものであり究極の論理です。いわば最後に残された逃げ道でもあるわけです。儒教や仏教の影響を多少なりとも受けているのが現在の神道であり、神道や儒教、中国道教の要素を多く取り入れて現在の日本仏教があるわけで、この二教への信仰形態を私は神仏習合として支持すると同時に、そこから生まれて形成された特有の宗教観念を『日本教』、その思考回路が自然に備わっている人々を『日本教信者』として規定しています。もちろんその祭主は天皇陛下でありましょう。
この項はまた時を変えて記すつもりです。