生霊 |
人びとの顔が露骨に険しくなっている。混雑した繁華街を歩く人、閑散とした住宅街を歩いていく人、電車の座席にすわっている人、吊り革につかまっている人、あるいはスーパーで買い物をしている人、人、人…。どの顔も険相である。とくに女たちの顔が酷くなっている。整形だの化粧品だのを上手に使ってみたところで心の汚れが顔に出てしまっているのは隠せない。まあ何ともサディスティックな時代というか、内に秘めた攻撃性が隠れていない。笑えるのはパンツが見えるほどの超ミニスカートを穿いた女の顔が極端な険相だったりしたときだ。ああいうものは自信たっぷりに穿いて歩くもんだと思うのだが、特定の誰か一人だけに見せるつもりなのか、周囲の男たちの視線を集めてしまっていることにも気づかず口をひん曲げ、眉間にみにくい皺を寄せながら鋭い目つきで歩いている。残念なことに超ミニスカでしゃなりしゃなりと格好よく歩いている女は極めて少ない。
誰も彼もが強度のストレスを抱えこんでいるせいか、こいつらみんな心のどこかで呪い合っているんじゃないかと、小生近ごろ疑いを持っている。呪いといえば我が国では昔から神社、丑三つ時、五寸釘などと呪い方がある程度決まっているが、「人を呪わば穴二つ」とはよく云ったもので呪いも恨みもかならず自分に返っていくものだから、他人様を呪っているお方はくれぐれも気をつけたほうがいい。実は今回『生霊』の話を少しだけしたい。これは『いきだま』とも『いきりょう』あるいは『しょうりょう』とも、神道と仏教各派で読みかたが違うのだけど意味は同じで、呪いをかけたわけでもない自分が、気づかないうちに憎しみを飛ばして相手の魂に食い込ませてしまう生きた人間の荒御霊のことをいう。
たとえば創価学会員が、池田大作を批判した人びとの名前を書いて仏壇の引き出しに入れておき、「死ね」とか「くたばれ」とか「畜生め」とかおぞましいチョーセン罵詈雑言を吐きつけていることは有名なことだけど、創価学会の呪いなど宗教的には無意味でまったく効かないのだな、これが。また効かないことをあの連中はよく知っているから集団ストーカー・ハラスメントなど陰湿な嫌がらせを組織的に行使するわけで、だったらもうそれは宗教でもなんでもなく、そもそも宗教法人の資格なんかある筈もない。ところが、宗教的に効果がないにも関わらず彼らの呪いがまったく影響しないかというと、実はこれがあるのです。それを『生霊』という。
神道でも仏教各派でもこの生霊退治がいちばん厄介とされていて、それはやはり人のこころの闇の部分であるからだ。くわしくは別の機会にあらためたいが、とりあえず創価学会の呪詛にかぎらず、人びとは気づかぬうちに他人を憎んだり、あるいは知らぬうちに憎まれたりしているわけだから、神棚や仏壇を拝するまえにやっておいたほうが良いと思えることを簡単に記しておきたい。
まず朝早くに起きて、すぐに換気扇を回しながら窓を開け、部屋の空気を新鮮なものに入れ替える。手を洗い口をすすぎ、東側に窓のある方は昇る太陽に対面する。東側に窓がない方は壁の向こうに太陽が昇っていることを脳裏に観想する。目を閉じ、額のあたりに太陽を感じ、そして大きく鼻から息を吸い、口からゆっくりと吐き出す腹式呼吸を三度、ないし七度くり返す。そうして太陽のエネルギーを心身のなかに取り込み、前日に溜まった不純物をすべて追い出す。気持が落ち着いたところで民族の総氏神である『アマテラスオオミカミ』の御名をゆっくり声に出して十度唱える。これを十言神呪(とことのかじり)という。このあとに個人的に信仰している神仏の御名を呼んでもいいだろうし、この行法を夜なら月(ツクヨミノミコト・大月天王)や北極星(アメノミナカヌシノオオミカミ・北斗妙見大菩薩)に応用してもよいと思える。何らかの事情で苦しまれている方や、特に病中病後の方はぜひお試しください。生霊を退治できないまでも何らかの効果はある筈。気持の良い一日を送られることを祈って。