日蓮への誤解・曲解2 |
はじめにお断りしておくが、私は菩提寺である日蓮宗とともに真言宗、天台宗の寺院にもご面倒をお掛けしている。時間が取れれば禅を学びたいとも思っている。とうぜん伊勢神宮をはじめ産土之大神や各神社の神さまにもお世話になっている。キリスト教にもユダヤ教にも興味が尽きない。謗法(ほうぼう・法華以外を信仰すること)もへったくれもない。何々宗徒である前に純血の大和民族であるからだ。
前項より続ける。日蓮に対する誤解や曲解のもとが他宗派に対する攻撃であったことは疑いない。≪真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊≫と痛烈に批判した『四箇格言(しかかくげん)』が有名だが、このほかにも様々な批判を加え続けていることは確かである。日蓮はキチガイだなどと云う坊さんは今でもいる。けれど考えてみてほしい。この日本中に誰ひとり法華経を最重要視する者がいなかった時代なのである。日蓮がこの国に登場し、極端なまでの法華経信仰を謳いあげなければ、明らかに我が国に於けるこの教典への信仰は衰退していったのではないだろうか。ただ、日蓮が≪釈迦仏教の本質≫に迫れば迫るほど、日蓮自身が≪仏教の本質的意義≫から離れていったのではないかと疑う余地はあるかも知れない。仏教諸宗派に限らずあらゆる宗教は信仰者を幸福に導くことが至上命題である。その幸福が、最終的にありとあらゆる欲を捨てることでのみ得られる≪解脱(げだつ)≫にあると説いたのは、釈尊その人なのだから。
意外に思うかも知れないが、現在の日蓮宗の僧侶たちには他宗派に比べても話の分かるさばけた人が多い。神道をはじめ他宗派との交流も盛んであり、それを指摘して創価学会は堕落だ、邪教だと日蓮宗を非難・攻撃してきた。彼らは日蓮をそのまま体現したいらしく、争うことばかりに熱中する。しかし身を以って日蓮を真似るわりには潔癖どころかずいぶん卑劣であるけれど。当時の日蓮がああまでしなければならなかったのは、800年近く前に法華経のみを信仰したのが日蓮しかいなかったからである。であるからこそ命を懸けて信仰を貫いたのだ。しかし人間だって年齢とともに丸く穏やかになる。日蓮の系譜も時代とともに四方と調和する必要があったのだろう。殊に「神道は我が国固有の宗教であると同時に大和民族の固有文化である」と私はこれまでくり返し主張してきた。日蓮自身も太陽信仰が強く、伊勢神宮参詣や追っ手を逃れて伊勢系の神社に匿われたりもしている。日蓮は神祇(日本の神々)を釈尊の下に位置付けている点は確かだが、極端な神社嫌いは日興からではないだろうか。神社神道を否定した宗教宗派が隆盛した例は、じつは創価学会以外に見当たらない。その思考回路がこの国をことごとく蝕んでいるのである。