2016年 04月 12日
死と生 |
親をふくめて周囲の人たちが死んでゆくのを見たり聞いたりしていると、本当に人生なんて呆気ないものだとつくづくと感じる。あるいは死にかぎらず、目に映るあらゆる事象も、心に想う様々な感情もつねに変転としていくのが世の常なのだろう。緻密に創り上げてきたものが一瞬で崩れ去るとき、ひとは幾度も涙を流し、幾たびか神をも罵ったかも知れない……。
それでもひとは生きていかねばならないし、生きていくためには生きる気力を保ちつづけねばならない。何ものかから一人ひとりに生が与えられたかぎり、それはやはり自分だけのものではなく、与えしものとの共有物に違いないはずだから。その与えしものは『祖先と両親』であるかも知れないし、もしかしたら『遠い神』と呼ばれるものなのかも知れない。
メディアでは毎日毎日何件もの無残な死が報じられている。殺人事件にしろ交通事故や災害にしろ、驚くほどの数の真っ当な人びとが死んでゆくのを見ていると、『死』に対する感覚が麻痺していないかを、もしくは『神』の存在を疑ってはいないかを、そのつど自分自身に確かめねばならないとはどうしたことだろう。他者の死への感覚が麻痺すればするほど自己の生への執着も消えていくはずなのに、なぜ人はおのれの生だけには執着するのだろうか。そういう時代なのだと言ってしまえばそれまでだが、深く考えておかねばならないと思う。
by leonberg
| 2016-04-12 14:23
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