『慟哭の通州』を読んで |
加藤康男氏著『慟哭の通州 昭和12年夏の虐殺事件』(飛鳥新社刊)を読んだ。保守系の皆さんはこの事件に関してご存じであろうし、すでに多くの方々がこの本を読んでいるだろうから内容については細かく記さない。まったく知らなかったという方のために事件内容と気づいた点のみ説明しておきたい。特に「反戦」がイコール「平和」だと思い込んでいる人びとにはこのノンフィクションを読むことを強く薦めておく。
これは昭和12年、国民党や共産党や各軍閥が群雄割拠していたシナ満州の、北京近郊にある通州という地区において、女子供を含む日本人居留民二百数十人が親日を装ったシナ人の冀東(きとう)防共自治政府・保安隊によって虐殺された事件のことである。日本のシナ駐屯軍が軍事顧問を派遣して指導し、軍事物資を援助して成立していた、無防備の日本人居留民を守るべきシナ人保安隊数千名は、日本軍が遠征して留守の7月29日深夜3時を狙って通州城内に侵入し、略奪、暴行、凌辱を欲しいままにしたうえで無辜の住民をむごたらしく≪虐殺≫したのである。
妊婦は腹を裂かれ、胎児を取り上げて蹴ころがされる。女たちはことごとく裸にされ強姦輪姦されたうえ、陰部をえぐられ、棒を突っ込まれ、首を斬り落とされ、あるいは口内に土砂を埋め込まれて殺され、幼児は鼻に針金を通され引き回されたうえで腕を断ち切られ、足を断ち切られ殺される。ある人は頭の皮を剥がれ、目玉をくり抜かれ、腹を裂かれ腸を引きずり出されて殺される。ある人たちは顔に毒物を塗られて池に投げ込まれ、男は男根を切り取られ、子供も老人も裸にされ手の平に開けられた穴に通された針金で数珠つなぎにされ、機銃掃射で殺される。池の水が同胞の血で真っ赤に染まる……。
その状況は「感傷的な歌謡詞・童謡が多く、ともすればこの時代では軟弱のそしりを免れかねなかった詩人・西條八十にして」≪鬼畜の民族が、つひにその本性を顕わしたとは誰が知らう≫と言わしめたものであった。現地をルポした作家・吉屋信子は最後に≪来るときは、保安隊の残兵が出たら怖いと思つたが、帰るときは、われら悲憤に燃ゆるあまり、残兵出るなら出てみよ、必死となつて復讐してやる! と眼が血走る思ひだつた≫と記している。(以上は事件年発行の『主婦の友』より引用した文中からの再引用)
非常に興味深いのは、フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムスというアメリカ人ジャーナリストが事件の翌年にアメリカで刊行した『中国の戦争宣伝の内幕』という本のなかに遺している言葉だ。ふたたび文中から引用させて戴く。≪日本人は宣伝が下手である。~中略~日本人は自らの敵が世界で最強のプロバカンダ勢力であることにもかかわらず、宣伝を無視するだろう≫と、すでに当時からシナ人と日本人の民族性の違いをそう視ていた点である。そして彼は、≪(通州事件は)古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう≫、また≪(通州は)最も暗黒なる町の名として何世紀の後も記されることだろう≫とも記している。
通州事件が起きた昭和12年の12月には、中国共産党が云うところの『南京事件』が起きている。たしかに日本軍は南京を陥落させたが、彼らが主張する大虐殺などはなかった。その部分は多くの書物なり専門のブログなりを参照して戴ければ、当時の日本軍の規律から見ても、犠牲者の数字から見てもあり得ないことがはっきりすると思われる。翌13年にアメリカで発行された先ほどのF・V・ウィリアム氏の著書にも、南京に関する記述がまったくないことを著者の加藤氏は鋭く指摘している。
また文中の生存者同士の対談では「シナ人の豹変性というのは民族的な特性ですが、日本では敵側に寝返りを打ったり、投降したりすることは武士道の最も羞ずべき所業ですが、支那ではこれを【反正】といつて、正しきにかえるとしているのです。」とあるが、現在では日本国籍を有する者のなかにも平気で寝返りを打つ者が増殖している現状には、強く警鐘を鳴らしておくべきであろうと考える。