一線は超えてません? |
最近の人たちの日本語がよく理解できない。好き合っている異性と二人っきりで、ホテルの、それもダブルベッドだけしかない部屋で、酒を飲みながら仕事と称して恋を語り、やがて愛を語り、キスをして、すぐに舌を絡ませ合ってディープキスになだれ込み、胸をまさぐられ口づけられて、含まれて舐めまわされて、やがてクンニをされてフェラをして、そして、最後のインサートだけはしていないっ!という意味らしい「一線は超えてません」というあの言葉、あっちでもこっちでも流行らしい。
小生は芸能人の誰それが誰それと寝たの寝ないのとかいう話にまったく興味がない。亭主が居ようが居まいが女房が居ようが居まいが、正直言ってどうでもいいことだと思っている。ああ、それはそれはさぞかしお気持ちよろしゅうございましたね、という程度のものだ。それが芸能人ではなく政治家であったとしても別にどうということもない。ちょっとばかり昔の政治家や事業主なら妾の一人や二人は当たり前のように抱えていたものだし、そもそも小生は女遊びは男の甲斐性と公言する方々を理解している最後の世代であるから、最近の教条的な風潮には強く違和感を覚えている。
だがね、このところの「一線は超えてません」と宣言していた連中を見ていると見え透いたウソが何とも情けない。その厚顔ぶりが何とも不愉快だ。そんなつまらぬ言い訳が世間に通るか!と怒鳴りつけてやりたくなるのは小生ばかりではない筈だ。勃たなかったというなら別だがね。先日、民進党の幹事長内定から不倫ですべった女など元は検事だというのだから呆れるほかない。それもさんざ自民党議員の不倫を攻め立てていた女がである。嘘吐きは泥棒の始まりなのに、検事上がりの代議士がいけしゃあしゃあと全国民に向かってウソを吐く。元検事という経歴ゆえに他人の亭主を盗んだことを認められなかったのかな。それとも、もしかして超えなかった最後の一線というのは、中出しのことだったか。
検事や判事を抱える法務省にかぎらず、警察官や消防士、自衛官や教育者や医師や看護師や介護士、殊にはマスコミ人ら、堅いと思われていた人たちの犯罪不祥事が後を絶たない。殺人、強盗、薬物、痴漢にセクハラと何でもござれである。今や職業で人物を測ることが不可能な時代と相成ったのである。が、じつは昔からそうだったことを小生は少年の頃から知ってましたけどね。ただ、昔は大半の真面目な人たちが目立っていたということに過ぎなかったのだな。何でもかんでも創価民族のせいにするつもりはないものの、今は各省庁や組織にこれだけ創価シンジケートが入り込んでしまったら彼らの縦横の繋がりによって元もと真面目だった人たちの士気は確実に低下し、全体的に無気力・不真面目な風潮になっていくのもやむを得まい。入り込んだ創価勢力が徐々に頭角を現し始めたということは朝鮮同和がそこを仕切り始めたということに他ならないからである。
ああそうそう、以前≪集団ストーカーの犯人が公安(警察)で、被害を受けているのが朝鮮人≫という阿呆らしいデマに対して反駁したことがあるが、この手の悪質なデマを流しているのが犯人側であることは一目瞭然だった。小生の場合犯人側というのは小学館・集英社の朝鮮同和グループであり、朝鮮人と未解放部落民とくればそれを母体とした創価学会とツーツーな関係であり、メンバーが重複していることは誰でもが知っている通りであって、今でもこの二者はありとあらゆる手と者をつかい「被害者が悪い」とうそぶき続けている。あのなあ、盗聴・盗撮・住居侵入してる奴らが悪者に決まってんだろ、バカめ!
9月9日、土曜日恒例の読売夕刊『よみうり寸評創価版』では、特定危険指定暴力団の凶悪犯罪の立証を試みた警察と検察の≪盗聴≫を称えており、それには誰しもが賛成するだろうが、どうやらこのコラムの記者は≪盗聴している側が警察で、盗聴されているほうが悪い奴ら≫ という方向に読者に感じさせて誘導していきたいらしい。すると先に挙げた、集団ストーカー犯=公安・警察であり、被害者=朝鮮人・暴力団というフェイク構図を示さんと鋭意努力している様子が如実に示されており、それこそが集団ストーカーの実行組織・創価学会の一員が描いたシナリオであるものと、限りなく推認され得るのである。
しかしながら暴力団利用といえば、池田創価学会が富士宮を本拠地とした山口組の武闘派、旧後藤組を利用して一般市民に数々の暴力行為をはたらき大金を稼いできたことは殊に有名な話であり、その事実は当の後藤忠政元親分が著作『憚りながら』(宝島社)で詳しく述懐しておられるから、読売内部に巣くって蔓延(はびこ)る創価民族をはじめご存じなかった方は一読してみたら如何だろう。よくよくこの創価シンジケートの、一線を超えた薄穢なさが理解できるものと思うのだが。