移民の国へと? |
区内に住んでいる新しい成人の、なんと45%が外国籍だという新宿の街を久しぶりに歩いてみました。昼時の西口近辺だったせいか比較的ビジネスマン風が多かったけれど、それでもずいぶん外国人の発する大声が増えたものだと思いました。大声が増えたということは日本人に対する遠慮がなくなったということです。
シナ人や朝鮮人はもともと周囲を憚らずに大声を上げる民族でしたが、アジア系のほかの国籍の人びとも遠慮がなくなってしまったようですね。別に外国人にはビクビクしていてほしいなどと狭量なことを言っているわけでは全くありません。ただ、日本人に対する遠慮がなくなったということは東京のどこかの街にかれらの拠点があることが予測され、そこには相応の規模のコミュニティが存在している可能性を窺わせると言いたいだけです。
政治じゃないけれど数は力です。数が連携を生み、精神的な安定をももたらすと同時に経済を生んでいく。その逆もあって、カネを持って他国に行けばある程度の精神的安定は得ているでしょうし、同国人と知り合えば連携することを覚え、やがて数が集まっていくという寸法です。どちらの順序にしても、それは人の声を大きくするものなのです。
他国で暮らしていくにはその国の人びとと調和して溶け合うか、あるいは孤立するか、もしくは対立するかのどれかを選ばなくてはなりません。調和して溶け合うには語学が必要です。経済が安定していればなお良いでしょうし、特技を持っていればもっと良いでしょう。どれもなければ一人きり孤立するしかありません。マジョリティと調和できずに孤立したならば、そのかれはやがてマイノリティの一部として形成された集団に加わり「対立」へと導かれていくことでしょう。
安倍政権がいつのまにか事実上の移民受け入れへと走っているかに見られます。野党がモリだカケだと騒いでいる間に、実はモリカケなど目くらましだったのではないかと疑ってしまえるほど、速やかに事が運ばれています。与党も野党も何も言わない、国会で何一つ論じられないまま私たちは多民族共生国家への道を歩まされているのです。日本が好きで、この国の特異な文化や伝統が大好きで日本で暮らしたがる外国人なら私は大歓迎です。しかし多くがそうではない。
差別と好き嫌いは別物です。かつて都庁のエレベーターにきちんと並ばないシナ人を石原慎太郎は怒鳴りつけました。箱根神社の境内で騒いでいたシナ人たちをかつて怒鳴りつけた私は、「シナ人は絶対イヤだ」と直覚でモノを言った石原先生にこれぞ「Me Too!」と叫んで後塵を拝すこととします。