恐るべし常識外れ |
愛媛・松山刑務所からと大阪・富田林署からと立て続けに起きた2件の脱走事件を見ているとつくづく考えてしまうのですね。というのも刑務所や警察署のずさんさもさることながら、泥棒という人種の逞しさに呆れてしまうのと同時に、じつは感心さえしてしまうのです。もちろんこんな犯罪に感心してはいけないのだけれど、わが身を振り返ってみると彼らが当然のように出来ることが自分はあれも出来ないこれも出来ない、という……。
彼らの場合はカネがなくたって腹が空いたら店先から盗んで食えばいいわけです。寝るところがなければ空き家に忍び込んで眠れるし、そこらへんに置いてあるバイクでも自転車でも乗り放題。言うことやることぜんぶウソでいい。彼らにはそこに葛藤がない。こっちは大むかし不良だやくざだ右翼だなんて云ったって、筋が通るの通らないのと厳然としたルールに縛られてきた自分がいる。盗みや性犯罪などしたら末代までの恥、という強烈な概念に覆われている。他人の家に乗り込むことが出来ても、留守中の他人の家に入り込むことなんて出来やしない。柳や竹みたく嵐に遭って右にグレても雨に打たれて左にダレても、背骨に狂いが生じないからまた元にもどれる。逆にいうと背骨があるからこそサバイバル出来ないことが山ほど出てくる。
先週のブログで日本に来る外国人のことを書きながら、じつは自分がアメリカに旅したときの窮状を思い起こしながら書いてもいたわけです。北野武の『ブラザー』みたいに格好のいいものじゃない、あれは私がアメリカに行ったというただそれだけをモデルとしたものですから。だいたい喧嘩なんて出来るわけがない。少々自信のあった英語がまったく、そうまったく通じなくて身動きひとつ取れやしなかった。四十歳近くにもなって英語が堪能な二十歳の学生のうしろをくっついて歩いたり、他の多くの人たちに援けられて旅したわけで、そんな経験がプライドを随分なほど削ぎ落として丸ーくもなったわけです。
そういう旅と対比しつつ脱走した泥棒くん二人を見ていると、これはもうなんと言うか、サバイバルという意味においては確実に手段を選ばない彼ら盗っ人のほうが優秀なわけで、私のようなコチコチあたまは生存率が低くなるということなのです。なぜこんな話をしているかというと、おそらく近い将来、この国に終戦時のような混乱期がやってくるだろうと予測しているからです。このままの状態で、名目がどうであれ移民を受け入れていけば、東南アジア人にまぎれてシナ人朝鮮人が増えても、顔が似ているから気づかぬうちに溶け込んでいることでしょう。しかも似ているのは顔だけだから伝統や文化、日本人の誰もがかかえていた常識さえ消えてなくなることでしょう。これまでもくり返してきましたが侵略は軍事だけではないのです。つまり日本国籍人はいても、大和民族は衰退せざるを得なくなるということなのです。それを指をくわえて視ていられるでしょうか。
それらを踏まえてチャンネルを択んでテレビを観、映画を観、新聞を読み、本を読み、よくよく考えていかなければならなかったのですが、そんな時節などとっくに過ぎているのです。電波は朝鮮人に、文学は朝鮮カルトの創価学会に蹂躙されているのがこの国の現状です。ことに文学賞を制圧した創価学会のゴマさえ擦れば芥川でも直木でも大概の賞が取れてしまえるのを見てとった北野武は、つぎの冠欲しさにいま盛んな運動を展開しているというわけです。ところで1週前の日刊スポーツでのタケシの言葉をネットで見ました。新社長になるつまみ枝豆氏に「暴力事件を起こせ。講談社や新潮社を襲っちゃえ。芸人はそれくらいやらなきゃ」ですと。へえ、それが芸人なんだ。洒落とも冗談とも聞こえませんけどね。何かあれば警察は教唆ととるべきでしょう。
どうです?羨ましくなるほどの逞しさじゃありませんか。もはやこの国には大和民族の常識などないのです。