小林・町山論戦について |
今週はこれで行こうと決めると政治や社会の問題が次から次へと湧き出してきて目まぐるしさが尋常ではない。ひとつのことをじっと考える癖のある者に現代社会はあまりに忙しすぎる。(これは18日の予定稿だったものを急遽差し替えたため、一週遅れで更新するもの)
しばらく前に漫画家の小林よしのり陣営と映画評論家の町山智浩陣営のあいだで交わされた論争に関して、しばし考えさせられるものがあったので書き留めておきたい。すでに2ヵ月ほど前の話になるらしい発端に関しては知らなかった皆さんがそれぞれ調べていただくとして、要するに国家と人権のどちらが重要かという論戦なのだった。この『国家』と『個の人権』の天秤は、じつは左右両派の半永久的な課題である。小林氏は自分だけがエラい論で相変わらずなのだが、両陣営は真面目に高度な論争をしている。
ゴー宣で小林氏が「わはははは・・こんな馬鹿馬鹿しい話はない。国家がないところで人権が保障されるわけがないではないか!」と嘲笑えば、対して町山氏はツイッターでこう答えている。
「人権を保障しない国家なら国民にとって存在意義がないのです。人権とは人が自分を守るために作り出した相互安全保障だと考えていますが、国家はそのためであって、国家を国民の人権に優先するのは本末転倒です。(~以下筆者略)」と。
通常なら100対0で国家が重要に決まっていると私も内心で旗色を鮮明にするところなのだが、どうも町山論のもたらす余韻には単純に斬って棄てられないものを感じた。たしかに両陣営の主張が交わることがないだろうとは思う。小林氏は現代の、それも現実論を主張しているのに対し、擁護するつもりはないものの町山氏はもしかしたら本来の人間たちのあるべき姿を伝えようとしているのではないかと考えたからである。
はるかな古代、男が女を好きになり女が男を好きになり、家族となって子が生まれ、その家族の衣食住を守るために群れに加わり、より強固な安全を得るために群れを強く大きくしていった。群れの構成人数が増えれば統制するための掟が必要になる。群れはムラとなり、やがて現代風にいうなら町になり、市になり、県となって安全保障を得るための国家を形成していった。掟は法となり、人びとの生存を守ったがしかし、国際・国内を問わず法は反面、必然的に個の犠牲を強いることともなる。それが大多数ならば戦争であるし、少数ならテロルの加害被害であり、個ならば犯罪となる。
そういう順序で考えていくと件の論争は卵がさきか鶏がさきかという話に似て、どちらも正しくどちらも正しくないということになるかも知れない。永遠に平行線を辿ると思われる双方の主張も、要はどこに視点を置き、どこにおのが立ち位置を据え、どこに想いを馳せたうえでの主張であり発言かということを深く鑑みることができれば、みなが幸福になるためにつくり上げた国家によって、今度は逆に個が圧迫され人権がおろそかにされ得ることもあるという現実を、どこまで認め、どこから拒絶するかということに尽きるのではないだろうか。
これまでもくり返してきたように≪高邁な理想をかかげつつ極めて現実的に対応する≫ことが政治であるのだが、理想と現実にたいするそれぞれの沸点が千差万別であるがゆえにそこかしこで論争が絶えぬし、同時に結果が出ず、結局は民主主義という名のもとに多数決に結論をゆだねるしかないのである。
今回の論争に関して左翼特有の一見ありふれた考え方に見えてしまう町山論になぜ引っかかってしまったかは、憚りつつ述べると私個人が置かれてしまった立場を自分なりに考えてしまったからにほかならない。私の訴えを認めてしまったらより強硬な差別に繋がると考えた国家の方策のまえに、個の尊厳がまったく蔑ろにされ、しかし、個を犠牲にしたことで旧態依然の差別感情が解消されたのならいざ知らず、ことは真逆に大きくなり強くなりむしろ一般化する経緯をたどったわけで、それは果たして国家とともに国民一人ひとりの人権にとって本当に良い結果をもたらしたのかと問いたいのである。私にはそれを主張する権利があるはずだが。
今回この論争も町山氏が途中から攻撃に耐えかねたのか論破されたのか、右派も保守もネトウヨも十把一絡げに非難し始めたことで誰の目にも終了と相成ったことは残念だった。それでもひとにものを考えさせることのできた論戦ではあったと思う。そして甚だ残念であるのは小林氏がSPAからSAPIOに移籍し、ふたたびSPAに出戻っても変わらずに他者を愚弄する論法に終始していることなのだ。
18年くらい前になるだろうか、上から目線で揶揄してきた氏に私は、右翼の大物にでもなりたければ邪魔などしないから勝手になれ、きのうきょうのマンガ右翼がこの俺に偉そうなことを言うなと仲介者から伝えたものだった。それきり黙ったから追いはしなかったが、小林よしのりという人間には疑念をいだいた。かれの欲にである。のちに私がブログを始めるだいぶ前だが、小林の弟子だかブレーンだかとトラブルになったときにも感じたことだ。こちらの話を全く聞かない。一方的なデマ情報で中傷しながら書きまくるだけ。ケジメをつけさせて事は終わったが、とても同胞とは思えないほど話が通じなかった。私は右翼でも保守でも遅咲きが嫌いである。一方的に絡んでくるのは大概その手だからだ。
終戦後から私たちの世代まで右派陣営はずっと少数派だった。同じ思想を持つ仲間は得難くて大切にしたものだし、一人でも多くの同調者賛同者を得たかった。少しくらいの趣旨のちがいを気にしなかった。それでも敵対するときはある。昔から右翼の敵は左翼ではなく右翼だと言われてきたようにだ。小林氏の「ゴーマニズム宣言」はこの国の潜在的保守派の若者たちに一定の影響をもたらしたものと思う。だが自分の言いたいことだけを主張し、相手の主張を聞かない、侮蔑し、嘲笑し、罵倒するという一定の『型』をつくったのもまた小林氏であるだろう。善悪に二極化しなければ面白くないマンガでの主張などもう辞めたら如何か。思想家なら日本語をたいせつにすべきだろう。大和民族なら優しい言の葉で説得すべきである。