人びとを生かすか殺すかコンプライアンス |
世の中にやたらと「コンプライアンス」という言葉が飛び交っている。基本的には法令順守のことを指すそうだけど、差別はもとよりパワハラやセクハラなど他のあらゆる部分にも当てはめるものらしく、しかし基準がとても曖昧で、だが基準を確定してゆけば対症療法ばかりに終始してしまって余計に四角四面になるばかりで、ずいぶん窮屈な世の中になってしまったものだと感じてしまう今日この頃。
職場で宗教の話をしてはならないというのもその一つで、たとえば茶飲み話のなかで「お墓参りに行くんです」と聞けば、「お墓は遠くなんですか?」と尋ねもする。その返事として「遠くないですよ。うちは近くのお寺なんで」と答えが返ってくれば、「ああ、お寺ですか。ご宗旨は?」というふうに話が自然と流れるものだった。
普通の日本人は仏教の宗派にしても神道でもキリスト教でも、家や自分の信仰を他人に話す必要はないものの隠す必要も全くないから、「うちは〇〇宗なんですよ」と普通に返事をする。もしそれが同じ宗旨であったら「おや、うちと同じですね」と少しは話が盛り上がっていくものだった。人間同士のコミュニケーションを円滑にするために共通点を見つけるのは常道だし、そういった手法とも呼べない常識は誰かに教わらずとも生きて来ていれば自然と身についているものだろう。
そんな自然な会話から多少の宗派話しになったとしても、そのことの何がコンプライアンスに引っかかるのだろう。たとえばそこから派生してどこかの宗教団体を批判したということになれば別だろうが、そういう話ではないかぎり、その会話がコンプライアンスの名の下に糾弾や批判を浴びるとなれば、もう誰ともどんな話も出来なくなってしまうではないか。理解できない。
比較的自分の信心を言いたがらないのは新興宗教の信者に多いが、個人情報保護法の施行以来、創価学会員が学会員であることを隠すようになった。創価性質が同和や在日の性質とも共通していた(全員がそうではないが)ことから、多くの日本人に学会員を嫌う風潮は当たり前のようにあった。隠すようになったのはそんな偏見を避けるためにとも考えられるが、そもそも隠す必要もないことを隠すからには何か別な目的があると考えても邪推とは言えないだろう。
「スパイ」というのは秘密工作員のことを指すが、特殊な訓練を受けていることだけがスパイの条件ではない。スパイにもそれこそピンからキリまであって、人知れず情報を集めている者も、情報を得て密告(あるいはコソコソ報告)しているような者も、情報(それがデマであっても)を元に攻撃を仕掛ける者も、情報を収集され攻撃を受けている側から見れば明らかなスパイである。スパイは相手を騙すわけだから、国家のためでないかぎり卑しい者しかしないものだ。少なくとも平均的日本人の美学(もしくは美的感覚)からすれば卑しい者しかしない。そこらへんの詐欺師と同列に扱えるものなのだ。創価・同和・在日の三者に、スパイ=諜報活動やその真似事を好む者が非常に多いのは何故か。
同和の『和』というのは、調べたことはないが倭の「わ」であり大和の「和」であって、日本人はみな同じという意味だったのではないのか。和は調和や協和の和でもあるわけで、少なくとも私はそう考えていたのだが彼らのものの考え方を見るとどうやら「自分たちは違う」ということらしい。強烈な自我を(内心で)主張している者がいるのは何故だろう。在日にしても特に社会的に成功するとくだらぬことを始めるのは何故だろう。個人的に顔かたちや体形で判断することは嫌いだが、以下のような性質でなら断定する。
・強い被害者意識を抱え込む(同和・在日に多し)
・過剰反応を示す(三者に多し)
・死者を罵倒する(三者、特に創価組織か創価教育で育った者に多し)
・本人だけでなく親や先祖の悪口まで言う(創価と在日に多し)
・事実とは正反対の嘘をつく(三者に多し)
・意地が悪い(特に創価に多し)
・自慢ばかりする(朝鮮人に多し)
・人の話を聞かない(創価・在日に多し)
・ギャーギャー騒ぎ立てる(集団なら同和と在日。個人でもなら創価に多し)
・そもそも礼儀を知らない(三者に多し)
・排他的である(三者に多し)
・自分が見えず他人しか見えない(極めて創価に多し)
・不思議なことに特権意識を持つ(三者で成功した者に多し)
・卑怯の意味を知らない
少しまえに産経新聞が大幅な人員削減とネットで報じられていた。産経だけでなく他の新聞社でも読者離れが加速していると聞く。たまに通る道筋にある朝日の専売所もいつの間にか無くなっていた。職場で若い人に新聞が云々と話しかけたら「まだ新聞なんか取ってるんですか!?」とビックリされてこっちのほうが驚いたこともある。ネットが新聞に取って代わったのだと人は言う。だが個々の記者たちの劣化にまで言及する人は少ない。
40年前、上京して何に驚いたと言って産経新聞の論調に「こんな新聞があったのか」と驚いたものだった。同期はもちろん先輩にまで購読を勧めて歩き、以来、引越魔の私は越す先々でいちいち販売店や支局に電話をかけて礼を言い、励まし、期待している旨を伝えてきたものだった。30年前に集団ストーカーによる組織的嫌がらせ(ハラスメント)が始まり、創価学会の関与も疑われ、やがて関与が事実であると明らかになった頃、産経新聞の社会面でどうでもいいような私個人に向けた悪意の暗喩記事がたびたび掲載された。
名指しの記事なら抗議も出来るが、名指しでなければ否定や抗議をすれば逆に被害妄想(精神病)を疑われ、奴らの思うつぼになる。放っておいたらファンだったコラムまでもが同調し始めた。取材(事実の調査)もしないで記事を書く産経のレベルの低さを悟らされたから長年の産経購読を止めた。今でも陰ながら応援はしているが、残念だった。社会部長が創価学会員だったと知らされたのは後のことだ。
創価学会員に部長職を与えてしまう新聞社なんて悪い冗談でしかないだろう。産経には骨があったようで実はなかったのではないか。都知事に当選して小池旋風が捲き起こると、産経は小池に記事を書かせるために石原慎太郎を外したそうだ。石原先生ご本人が述懐されている。前出の三者中、特に創価学会に権限を与えると必ずや私的制裁を行使する。例えば元もと左翼紙だが取材力もあり保守系記者も中にはいて左寄りの記事の中に保守系記事も載せていた朝日が、少しずつ入り込んでいた隠れ創価と在日がしだいに頭角を現すようになると朝日論調は社運をかけて「ただ反対」と叫ぶだけの狂信的左翼に変貌していった。
お解りか?入っていった先ざきで食い潰していくというその手法とこの国の状況を、未だに理解出来ていない上層部が新聞社にかぎらず世間には多過ぎるのだ。事実を世間に知らしめるべきメディアがそれなのだからマスゴミと蔑まれ、これまたスパイだらけのネットに移行してしまうのも仕方ないのかも知れない(保守を称した創価ネトウヨがランキング20位以内に少なくとも二人はいる)。徐々に洗脳されないことを祈る。
ちなみに現在購読している読売新聞では、長期にわたって購読者である私個人に対する虚実織り交ぜた中傷コラムを書き続けてきた創価学会員が夕刊から朝刊に出世し、いま朝刊コラムを書いている。こいつの作文は中傷したくてしたくて前半を書いたものの本来書かなくてはならない後半部分とがぜんぜん繋がらないから読めば笑えるほど直ぐわかる。読売から給料を取って創価活動に使おうという下劣でさもしい根性を叩き直してせいぜい精進するしかあるまい。精進とは悪質な汚泥犯罪から身を清め、組織を後ろ盾にして思い上がった行いを厳に慎むことである。あれもいけないこれもダメと人びとを圧倒するコンプライアンスだが、マスゴミは何をしてもいいそうだ。