部落とは何か |
新年度の慌ただしさにかまけてしばらくご無沙汰してしまっている間に我が国の新たな元号も『令和』と決まり、平成時代もあとわずかとなった。個人的には集団ストーカーとの30年だったのだが、よく人に騙され、よく人に救われ、またよく人に裏切られたものの、ここまでよく生きて来られたものだとも思う。多くの善意の賜物だと感謝しています。でも防御をできない私に「脇が甘い」という声もあったのだが、完全監視の中で甘いも締めるもないものだった。おそらく想像もつかないのだろう。
私は「人間第一主義」だから、一人の人間を視るときに出自だの過去だの学歴だの経歴などでは判断しない。経験がもたらしてきた直感しか信じない。数年前、ある警備会社で研修を受けたとき、講師の吉…という警察OBが「職業で人間を差別する奴が大嫌いだ」とちらり私を見ながらのたまった。まさか俺に言ってるんじゃないだろうな、と思ったがやはりその通りでさんざん嫌がらせをされ、ひと月後にやむなく「サンドバックにされたまま死んでいくつもりはない」とそいつに宣言して職を辞した。
チビでずんぐりむっくりで頬骨の飛び出した警察学校の元教官とやらは、その大手警備会社に私を推薦した別の警備会社と元捜査一課長と元署長たちに赤ッ恥をかかせたわけだが、私は土建屋の、若い衆たちからオヤジと呼ばれネエさんと呼ばれていた両親と共に、おじちゃん、にいちゃんと私が呼んでいた人の中には渡り鳶や懲役帰りもいた大勢の男たちに育てられてきたドラ息子だ。そんな男が出自や経歴、ましてや職業なんかで人間を差別・識別などするわけがない。職業では人間性を判断できないのだ。私の基本はそこにある。しかし私個人に対するこんなデマがあらゆる階層に棲息する部落民のあいだで当たり前のようにまき散らされてきたのが私の『平成』だった。
では「部落」とはそもそも何か。部落とは集落のことである。地方の農村や山村に行けば今でも部落という呼称をつかっている。一面が田んぼや畑の広い農村の、ところどころに数軒から十数軒、あるいは数十軒の家のかたまりが見えるとする。このかたまりを部落といい、これが日本の原風景だ。昨今は地方でも部落と部落の間が宅地で埋まったから境界線がなくなり部落は消滅したが、近年まで部落と呼んでいた地域も部落を集落と言い換えることが多くなった。都会育ちや若者に「被差別部落」と混同されるからという理由だろう。
そもそも水平社を発展解消した「部落解放同盟」という名称に、みんな巻き添えにしてやろうという魂胆が透けて見える。穢多部落や非人部落がいけないなら特殊部落や未解放部落や被差別部落の解放同盟とすべきだったろう。今の彼らが所属組織を隠し、あらゆる組織名に紛れ込んで広範な反日活動を行使していることは多くのネット動画を観れば明らかだ。寄ってたかって罵詈雑言を浴びせるのは彼ら独特の手法である。私の職場でも退職したチビで被害者意識が強く差別されている者だけが正しいと思い込んでいる奴が「安倍(総理)が憎いから〇〇(私)が嫌いなんだ」とか他人への悪口ばかりもろもろ朝鮮人顔負けのデマを言い触らしていたらしいが、知的水準があまりに低すぎて嗤えるメンタリティとしか言いようがない。これほど反社会的性質で生きていて楽しいのだろうかと可哀そうになる。私は差別など大嫌いだが、デマを信じて集団ストーカーに加担する賤民には遠慮などしない。
そこで、では穢多とは何だろうか。江戸では穢多と非人が明確に分けられていたようだが、ほとんど同じと見なされていた地方も多いようだ。ここまでされて同和の味方をする気はさらさらないものの、一生懸命に生きてきた人たちへ平成の終わりにいくつか伝えておきたい。屠殺肉食をしていたから穢れが多いなんて言葉、どう考えたって当て字でしかない。ましてや「エ」と「タ」の間に「ッ」を挟んで侮蔑するなど、明らかに日本語の語感としては考えられない。正しくが「エッタ」であり、これについては喜田貞吉博士が容姿等から、明治時点で北海道に数百人認められた北方ツングース系のオロッコ族が、オロッコを怖れ対峙していたアイヌを南に押し出しておそらく内地にもいただろうと推測しており、アイヌ研究の第一人者であった金田一京助博士に照会している。すると、彼らオロッコ族が自分たちを「ィエッタ」とか「エッタ」と呼んでいた(金田一博士の耳にはそう聞こえたという意味)と回答されたという。在野の研究者菊池山哉はウィルタ→ウエッタ→エッタ→エタと転訛したとし、どちらもエタの語源はオロッコ族(正式名称はウィルタ族)であろうと確信したらしい。あくまで語源は、である。
ではエタとされた人たちがみなオロッコ族の血統であったかというと、これもまた地域によって大きく違うだろうと考えられている。部落民の源流に関しては、北から挙げると先述のウィルタ(オロッコ)族説、コロボックル伝説で知られるニヴフ(ギリヤーク)族説、アイヌ族説、朝廷と紛争を起こして俘囚となって各地に配流されたエミシ族説、朝廷側からそれぞれの蔑称で呼ばれていた日本各地の縄文系原住民説、一部研究では否定されたが渡来朝鮮人説などの人種起源論や、年貢を納められなくなった農民が京の鴨の河原に集まっていったものとの経済関連論、皮革関係や川魚捕獲や細工師等の職業起源論、隠れキリシタン等の宗教起源論、源平合戦後の平家や戦国時代の武士の落人とする貴種流離譚説まで様々である。
そしてこれはどれか一つだけなのではなく(もちろん中心とされたグループはあるだろうけど)、複合的に絡み合っていたものが江戸期にエタという名称で身分固定されたものだろうと、個人的には考えている。というのも貴種流離譚説に関しては多くの部落民がそう言いたがる伝説に過ぎないものの、一概に否定できないものでもあるようだ。私は専門家ではないが実は本人から直接信憑性のある話を聞いたことがある。
細かく書くとまたネタを盗まれるが、その村の被差別部落は戦国時代にたった一人の落武者から始まったという。腕の立つ武士である彼を匿い、傷を癒してくれた村人に恩を返すため、あちこちに出没していた他の落武者ら野盗から村人たちを守った。やがて村に住み着くことになって村娘を娶るが、時代が下って平和な世になると食い扶持分しか野良仕事をしなかったがために他人の田や畑の番人(後の番太)となり、代が変わった頃には寺やお宮の掃除(後の浄め)までするようになり、長吏と呼ばれて罪人の捕縛を本業とした。都市部ならそれぞれ役割が違っていたのだろうが部落民が一家族しかない僻村のことだからだと想像できる。そして江戸時代、この家は穢多身分として固定されたという話だった。これは充分あり得る話ではないだろうか。
山折哲夫さんは私が尊敬する数少ない学者で、著作から教えられることは無論のこと、教えられる考え方と共に同意出来ることも多いのだが、一か所おかしいところがあったのは日蓮聖人に関する記述だった(※申し訳ないけれどどの本であったかメモが見つからないので、この1年内に読んだ著作物を3冊挙げて紹介しておきます。「涙と日本人」(日本経済新聞社)・「悲しみの精神史」(PHP研究所)・「にっぽん巡礼」(創元社))。山折さんは日蓮が「我は旃陀羅が子なり」あるいは「海辺の漁夫の子なり」と執拗に自己を貶めて見せたことでエタ部落民であると断じておられるが、それは明らかに間違いだろう。気質の激しさからみて空海同様に黒潮文化系を示唆しておられるのはなるほどと感心するものの、この件に関しては部落民衆が同志の中の偉人として盛んに吹聴した事実があり、創価学会がそれを信じてか利用してか、被差別部落を折伏・勧誘するため宣伝したものだ。山折さんは創価学会と昵懇だったろうからそっちに忖度しておられるのかも知れないが、山折さんのご実家の浄土真宗こそ部落民の宗旨として圧倒的ではなかっただろうか。
日蓮の出自に関しては事実がかなり判っている。父方の祖父が井伊家の分家の遠州貫名氏で、源平合戦時に平家側についたことで安房国小湊に流された。父親は貫名次郎重忠で第四子がのちの日蓮である。母方は清原氏であり、安倍氏と並んで奥州エミシの名家だ。日蓮が育った環境については父親が漁業を生業としていたように日蓮自身がたびたび記し謙遜しているが、実際には今でいう漁業組合の采配会計のようなことをしていたもののようだ。それでも殺生に深くかかわっているわけで、幼少時に出家し殺生を固く禁ずる僧侶としては自己を低位置に置く必要があるという思い、また同時に、当時の安房国というのは恐ろしく辺境の地であり、比叡山では公家や武家の子弟から田舎者と苛めぬかれたものらしいことから、自分を底辺に置いて思考する癖がついたものだろう。
江戸後期の国学者平田篤胤などは日蓮の著作物から引用し、エタだ賤民だなどと口汚なく罵っているうえ、近年の誰かの著作物でも(山折氏であったかどうか失念)、日蓮が「エタが子なり」と記しているかのように書いていたが、日蓮にそんな著述は一つもない。旃陀羅は飽くまでインドのチャンダーラ(屠児・賤民)であり、日本古来のエタではないのである。日蓮の激しい気質から言って一連の独特の舌鋒を文章にしたためたものだろう。この件に関しても喜田貞吉博士が丁寧かつ鋭い論稿を重ねている。いわく、日蓮があれほどまでに愛した父母を辱めることはあり得ず、であるなら上述したような理由から独特の底辺眼を以て記したのではないか、という意味のことを。
「日蓮は事実漁夫の子であった。自ら旃陀羅の子なりと言われたからとて、世間のいわゆる旃陀羅すなわちエタとは同視すべからざるものである。ただ常に強い言いあらわしに慣れた彼が、自らさる名辞を用いられたが為に、後人をして真にエタの子なるが如く解せしむるに至ったのは、彼自身においては何ら痛痒を感じられぬとしても、これを嫌がる後の門流の人々に対しては、気の毒の感なき能わぬのである。」と結論している。
上に挙げた喜田博士の「賤民とは何か」(河出書房新社)中でもいくつか過ちが認められるものの(部落民の宗旨が浄土真宗8割・日蓮宗2割という箇所。実際に後の問題となる差別戒名は曹洞宗・臨済宗の禅宗に圧倒的に多いわけだから、親鸞と日蓮が底辺庶民をも救済すべく教化しようとしたことは事実であろうけど、出すなら緻密なデータが欲しかった)、日蓮宗門にもまったく忖度せず論じ、しかしなるほど日蓮が自らを貶めて見せる姿勢をこう締めている。
「今さらに聖人の大慈大悲の広大なるに敬服せざるを得ぬ」と。
時代は『令和』として始まろうとしている。いつまでも平成までのつまらぬことに拘っていれば何も為せないことだろう。私たちは生きていかねばならないのだから。最後に山折さんの言葉を。
「人間は限りなく裏切りつづける存在。であるからこそ信じつづけねばならない」
「日本仏教の各宗派は、我がホトケ尊し、の自意識から自由になれない。それをオンリーワン路線と呼ぶ。オンリーワンの独善路線を今こそ転換すべきときではないか。それが80年を生きたブッダの思想的原点である」