戦時体験 ① |
今朝の読売新聞に村上春樹氏が今日発売の文藝春秋誌に寄せている原稿に関する記事が載っていた。「猫を棄てる」と題した原稿で、父親の戦争体験について書かれているらしい。1938年に20歳で徴兵され中国戦線に送られて得た体験(所属部隊が中国兵捕虜を処刑した)を聞かされた幼少の村上氏が、父親の体験を「息子である僕が部分的に継承したということになるだろう」と記し、その後の村上作品の底流にある「市井の個々人が歴史を受け継いで生きている」ことを想定しつつ作品を描いているという趣旨の記事だった。
なるほど、だがそれにしては他人の親を満蒙干拓団の農民に仕立てたり重度のアルツハイマーだとか他所の男と出奔したとか記すウソ八百も多いわけだが、まあ今回言わんとしていることはよく理解できる。氏は父親からそうした話を聞かされて反戦作家となり、小生はよく似た話を聞いて国防の必要性を痛感しつつ生きてきたわけだから、立場は正反対だが。
小さい頃から戦争ごっこに西部劇ごっこにチャンバラごっこと合間には缶蹴りくらいで、戦うことを想定した遊びが私たちの子供時代だった。そうして育った少年時代は馬賊になりたくて、戦前の上海浪人だった祖母方の曽祖父や伊達政宗直系子孫の馬賊伊達順之助に憧れたりもした。関東軍軍属の父親からは戦争中の話を聞きたくて質問をくり返したものだが、言わないのですね、これが。であるから私が知っている父親の戦地体験は、酔いにまかせてポツリと漏らした言葉やひと言だけ語気を強めた幾つもの断片を、私のなかで組み合わせたものでしかない。
それに比べて海軍軍人であった伯父は結構細かく話して聞かせてくれたものだった。先輩や友人に訊いてみると、どうやら戦地での話をしたがらないのは我が父だけでなく陸軍に多く、海軍出は勇ましく話をし、また陸軍に対する優越感を持っているらしいことも解った。伯父も、あれ(父)は頭が悪いから陸軍航空隊を落とされた、と言って私をよくからかったものだ。
余談だが、25のときに政治結社を立ち上げた話は以前にも書いた。当時「全日本愛国者団体会議」理事長の岸本力男先生に団体名を付けていただき、「網走番外地」の原作者である伊藤一先生からは新聞社を譲っていただいた。会長の座にすわってくれた方と私たちは内祝いのような席を設けて面識のなかったお二人に会っていただいた。両先生とも酔うほどに話も弾んだのだが、途中で海軍出の伊藤先生の海軍よもやま話がはじまり、次第に海軍自慢になっていった。岸本先生は黙ったまま聞いていた。伊藤先生がやがて酔いにまかせて陸軍を見下すかのような言動をとったとき、それまで黙って聞いていた岸本先生が低く言った。「俺は陸軍だ」。場は静まった。
陸軍出はなぜ語りたがらないのかを予科練出の父を持つ年長の友人に訊いてみると「虐めだろ」とすぐ言った。しかし軍隊がビンタビンタの毎日だとは父から聞いたことがあるものの、そこに暗い響きは感じられなかった。その証拠に私の担任を家に招くたびに父は必ず「鉄拳制裁もかまわない」と担任に願っていたくらいだから。だが父の死後、随分経って父の戦友に会いに行ったおりにそれまで知らなかった話を聞かされた。少年だった父は特定の上官に毎日虐められ、なぜ俺ばかり虐めるのだろうと同期にこぼしていたという。ところが当時憲兵隊隊長だった父の叔父が馬に乗って部下と共に面会に来た途端、毎日虐めていたその上官は震えあがってその日以来おとなしくなったのだとか。
数日前イジメ問題か何かで誰かが言っていた、「日本人て、そんなものですよ」の言葉が不愉快だったが、妙に完全否定できない自分がいる。私と同年や年が下だとほとんど父親に軍隊経験がないことから帝国陸軍を美化だけする風潮がある昨今だが、必ず側面も知っておかなければ大変な間違いを起こすことになるだろう。
この項つづく