戦時体験 ② |
首を絞め続ける。延々殴り続ける。ナイフで刺す。刀や剣で斬る。拳銃で撃つ。手榴弾を投げ込む。機関銃を掃射する。遠くから狙撃する。戦闘機で機銃掃射する。空に向けて砲撃する。島しょに艦砲射撃を行う。遥か上空から爆撃する。他国にミサイルを撃ち込む……。
すべて戦争における人の殺し方である。しかし文頭では肉弾戦で敵との距離が近く、しかも相手の身体に触れなければならずその顔さえ知らされることとなる。冒頭から後ろに下がるにしたがい相手の身体と自分の身体は離れていき、肉体を使うことがなくなる。もっと後ろに下がるにしたがって破壊力が増大し、顔の見えない不特定多数が犠牲となっていく。と同時に順々に殺害する側の罪の意識が薄れていく。お解りのことと思う。陸軍と海軍・空軍のこれが意識の差なのだろうということだ。
前項で記した岸本先生と伊藤先生との対話で、岸本先生が始めから陸軍出であることを話していたとしたら、伊藤先生も偉ぶる方ではないから一方的な海軍自慢にはならなかったものと思える。では伊藤先生が軍隊時代の話を始めたとき、なぜ岸本先生はご自分も同調して軍隊話を始めなかったのか。純粋右翼であり神道家でもあられた岸本先生がいやらしく網を張っていたわけでは決してない。敗戦が濃厚となって狂気に冒された戦地でどうだったかはわからないが少なくとも現代社会において自慢になるような話ではないと考えられたか、もしくは良い思い出などなかったのかも知れない。それほど海軍と陸軍とでは意識に差があるということだった。
わが愚父にしても少年時代の5年間も戦地にいたことさえ親戚でも相当に古くからの友人であっても知らない人がいたほどだった。それほど他人に語らなかったということだ。終戦後1年ほどして郷里に帰還した父のことを祖母は笑いながら語った。「乞食が来た!」と近所の子供たちが騒ぎまわっている声が聞こえて表に出てみると、男が近づいてきてようやくそれが息子だと気づいたと。祖母の話を父にそう言うとじろっと私を見て、何も言わずにテレビに視線をもどした。事情が読めたのは父が亡くなって40年が経った一昨年8月、新田次郎氏の妻で数学者藤原正彦さんのご母堂である藤原ていさんの著作『流れる星は生きてる』(中公文庫)を読了したときだった。旧満州新京から幼な子3人を連れて朝鮮半島を南下し引き揚げた1年あまりの地獄の体験を詳細に綴った貴重な作品だが、ようやく故郷に辿りついたラストの描写をP132より引用させて戴く。問題があればご指摘ください。
「引揚者休憩室」という木札のぶら下がってある待合室に案内された。入口に一歩足を踏み込んで私ははっとして立ちすくんだ。そこには私の幽霊が立っていた。灰色のぼうぼうの髪をして、青黒く土色に煙った顔に頬骨が飛び出して、眼はずっと奥のほうに引っこんで、あやしい光を帯びて私をじっと見詰めている。色のあせきった一枚のシャツ、その下にはいている半ズボンの膝小僧のあたりが破れてぶらぶら何かぶら下がっている。そのあたりから、水ぶくれにはれ上がった蝋のように白い足が二本にゅっと出てそれでも下駄だけははいている。背中には死んだような子を背負い、両脇にはがくりと前に倒れそうな子供の手を引いて……。
諏訪の湯と書いてある大きな鏡に写った私の姿は自分で見てさえ恐ろしいほどのものであった。鏡というものを一年以上見たことのない私はどんな姿か、自分を見ることが出来なかった。そして今見た私は墓場から抜け出してきた、幽霊そのままの姿であった。
人はみなそれぞれの体験と継承された記憶をもとに生きている。村上春樹氏のご父君は冒頭一文のうちで処刑を目撃、もしくは体験をされたことから復員してのち生活が落ち着いてから読経の日々を送られたものなのだろう。氏の言う父親の体験を「部分的に継承した」というのはそういうことなのだ。結果的な思想信条が違っていたとしても、どこの誰もそのメンタルの「継承」を否定できはしない。
先日の前項で挙げた陸軍出が語りたがらないことの原因の一つが虐めであることは疑いないが、もう一つ致命的原因が本項冒頭に挙げた敵の殺害方法によるものであることも間違いないだろう。私の愚母は戦中、雨のように降ってくる焼夷弾のなかを逃げまどい、家を焼かれ、父親の脚を不具にされても、終戦後子供たちにチョコレートを配ってくれる進駐軍が「みんな親切だったよ」などと言っていたものだ。小学校に上がったか上がらないかくらいの歳だから無理もないが、これが爆弾を落とした敵だと理屈では解っていても目のまえにある米兵たちの顔とはどうしても繋がらなかったものだろう。それこそが敵を殺害する方法の違いによって得る戦争体験のちがいではないだろうか。
亡くなられた野坂昭如さんが生前、昭和一桁生まれは一学年ちがうと考え方がぜんぜんちがうと書かれていたことがあった。昭和5年生まれの野坂さんは戦中に神戸大空襲から逃れた疎開先で(血縁のない)下の妹を餓死させている。「火垂るの墓」はその時に何もしてやれ(やら)なかった贖罪意識が生んだ作品だという。7年生まれの五木寛之さんは朝鮮半島から必死の引き揚げを経験され、その際に母親を亡くされている。それはおそらくどれ一つ取っても私たち世代が目で読み耳で聞いたところで想像出来得ないほど過酷な体験であったにちがいない。
戦前戦中に軍国教育を受け、これほどの戦争体験を重ねられた人びとに対して、その思想がどうであれ言動がどうであれ私は全面否定できるほどおこがましくはない。たとえば同じく昭和7年生まれに石原慎太郎さんがいる。同世代にすれば恵まれた環境下で育ってきたらしい石原さんを「特権階級意識だから他人の気持ちがわからない」とか「悲惨な目に遭っていないから軍国主義者だ」と中傷する左翼もいたが、石原慎太郎の心にある先の大戦への思いから生じくる石原慎太郎の一貫した現実的主張の、どこにも齟齬は生じていない。
私ですら石原さんの現役時代から根底にある反米意識には現実論から反対だったものだが、それは石原個人の思いである以上、敵でないかぎり尊重すべきだと考えた。以前尊敬する中曽根大勲位が「あの戦争は間違いだった」と読売新聞紙上で言明してしまったとき、言明してしまったことに対して私は抗議をした。もし心の奥底にあったとしても、国に殉じた人びとに対して、命を喪った人たちに対して、靖國の英霊に対して、「皆さんが死んだのは間違いだった。犬死にだった」などと口が裂けても言ってはならなかったからである。
今回石原が産経新聞紙上で『令和に寄せて』とした論を寄稿したが、一部右派から批判されていると聞く。批判している意味は解るが作家である石原慎太郎の思いを石原慎太郎が記したとき、私はそこに幾らかの違和感も覚えない。ただ、もしかしたらあの世代には天皇に対する何らかのわだかまりがあるだろうことは察しがつく。考えてみたらいい。現人神から人間宣言へと、その世代が味わった喪失感と情緒的混乱の経験が、われわれ世代にはないからだ。戦争体験者は皆それぞれ複雑なのだ。
天皇は国家の祭祀王であり、日本の伝統文化そのものである。日々国家の安泰と国民の安寧とを祈ってくださる。この国が近隣国のようにあっちにふらふら、こっちにふらふらしないのはわれわれ日本人にしっかりとした背骨があるからだ。この国の背骨とは、それこそが天皇なのである。私たちは天皇陛下が放射する光を帯びて生きている。論理づける必要はない。ふつうでいい。なんとなくでもいい。そういった、ふんわりとした皇室への想いこそが日本民族の歴史を紡いできたのである。石原慎太郎は同世代に向け『令和に寄せて』を書いた。私はつねに味方にでなく、むしろ中立派と一部の聡明な敵に向けて書いている。「コウアラネバナラヌ」とする戦前の狂信的原理主義をふたたびこの国に復活させようとする動きがあるなら私は断固反対の立場を取る。
折りしも右派界隈に二つの案件が出来た。一件は維新の会の丸山議員の言動だ。「戦争で取られた領土は戦争でしか取り返せない」。その通り、私も以前そう書いた。真実であり、彼は正しい。だが、発言した時と場所と場合が間違っている。彼は政治活動家ではなく政治家なのだから。どこかの政治家が国会議員が戦争などという言葉を吐くとは、とインタビューに答えていたがバカな、政治の行きつく最終局面が戦争であることくらい政治学の基本だ。問題はその言葉の使い方と使うタイミングなのである。東大出の官僚上りでもやはり実年齢×7掛けだったか。
もう一件、俳優の佐藤浩市が出演した映画のシナリオを安倍さんらしき総理大臣役の難病を揶揄(小馬鹿に)する設定に変えさせたという。佐藤は私にも前科があるが、「総理はストレスに弱く、すぐにおなかを下す設定にかえてもらった」と嬉々として小学館のインタビューに答えている。問題なのは難病を揶揄したからではない。難病だろうが何だろうが人さまの痛みや患いを馬鹿にしてよろこぶ人格に問題があるのだ。権力は絶対悪だという思考、だから何をしてもいいという思考から抜け出せないから彼らに対する差別がなくならないのである。
リテラも反安倍の肩を持つことばっかりで亡くなった岡留さんの反権力と同時に反権威の意志がぜんぜん受け継がれてないじゃないか。少し考えたら如何か。